カミングアウトをしなくても

隠れゲイのmarutoが日々小さなことに挑戦するブログ

衝撃に備える

最近、ツイッターをはじめたが同性婚訴訟やLGBTへのハラスメントに関する記事をよく見かける。このような記事を見ると心がざわつく。漠然と不安な気持ちになる。LGBTとして生きていく上で権利が認められたり、社会的な理解が深まることでハラスメントがなくなっていくのはもちろん良いことだということは分かる。しかし1人の当事者として素直に喜ぶことができない。

社会的な理解が深まり、権利が認められるほど世の中の風当たりがつよくなるからというのが大きな理由だと思う。有名な例として「黒人」や「女性」がまず浮かぶ。今まで抑圧されてきた存在にスポットが当たると、問題が世の中に広く知れわたる。理解を示す人がいる一方で少なくない層が嫌悪感を示す。LGBTは「黒人」や「女性」のように見た目ではっきりと判別できる存在ではないことが多い。だから自分からカミングアウトしなければ基本的には直接的な差別にさらされることはない。

しかしだからこそ家族や友人、職場の同僚など身近な存在のLGBTに関する言動に傷つくことがある。父と同居していた時、テレビで新宿二丁目を取りあつかった番組が流れていたことがあった。それを目にした父が露骨に嫌な顔をしてチャンネルを変えた。僕はいまだにあの時の父の表情を覚えている。自分の息子がゲイだと分かった時、言葉には出さないかもしれないけど少なからず父は失望するだろう。今後、世の中に出まわるLGBTに関する情報は増えていく。それに比例して嫌悪や理解のない言動も出てくるだろう。カミングアウトしていないと加工されない周囲の言動に直接さらされることになる。

そもそも人の心に芽生える差別意識をなくすことなどできるのだろうか。幼少期に見たドラマ「女王の教室」で忘れられないセリフがある。

 人間が生きている限り、いじめは永遠に存在するの。なぜなら人間は弱いものをいじめることに喜びを見出す動物だからです。

 人間は安心や安定を求める。そのために自分より「下」の存在をつくり相対的な自分の立ち位置を「上」だと認識していたい。そんな自分の認識が脅かされることがあれば誰かを攻撃する。差別意識を持つというのは(良いか悪いかは別として)当たり前のことではないかと思う。

であれば、権利獲得やハラスメント撲滅と並行して当事者の居場所づくりや心のケアに注力するべきだと思う。本音を打ちあけることができ、「自分はひとりじゃない」と思うことができるだけで心が少しだけ軽くなる。僕もゲイの友人ができたことで少しだけつよくなれた気がする。しかしそこに至るまで長い年月、孤独を感じた。LGBTの居場所はたくさんあるようでまだまだ少ない。当事者のひとりとしてできることを模索したい。

僕はLGBTの権利獲得や社会的な理解を深める活動を批判しているわけでは決してない。当事者が生きやすくなる環境づくりが社会全体で進んでいくのは素晴らしいことだ。しかし、その過程で「差別意識」にふれる機会が増えていくことに備えておかなければいけない。長い闘いになることは間違いない。「女性」や「黒人」が抱えている問題もまだ解決しているとは言えない状況なのだし。自分の中で抱える「差別意識」にも気にかけるようにしていきたい。

マイノリティ同士助けあって生きていきたいですね。